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アレクサンデル3世 (ローマ教皇) : ミニ英和和英辞書
アレクサンデル3世 (ローマ教皇)[あれくさんでる3せい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [よ, せい]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
教皇 : [きょうこう]
 (n) Pope

アレクサンデル3世 (ローマ教皇) : ウィキペディア日本語版
アレクサンデル3世 (ローマ教皇)[あれくさんでる3せい]

アレクサンデル3世(Alexander III, 1100年代(1105年(?)) - 1181年8月30日)は、シエーナ(イタリア)生まれのローマ教皇(在位:1159年 - 1181年)。パリのノートルダム聖堂の礎石を築いた。
==概要==
14世紀の記録ではバンディネリ家の出身とされるが、確かではない〔W. Maleczek, Papst und Kardinalskolleg von 1191 bis 1216, Wien 1984, p. 233 note 168〕。ボローニャ大学の研究によれば、12世紀の教会法学および神学指導者である「ボローニャのロランド」と同一人物とされる。ロランドが著した注釈書(''Stroma''または''Summa Magistri Rolandi'')はグラティアヌス教令集に対するものとしてはもっとも古い注釈書の1つであり、その文体にはピエール・アベラールの影響が見られる〔See John T. Noonan, “Who was Rolandus?” in ''Law, Church, and Society: Essays in Honor of Stephan Kuttner'', ed. Kenneth Pennington and Robert Somerville University of Pennsylvania Press, 1977 , pp. 21–48; Rudolph Weigand, “Magister Rolandus und Papst Alexander III,” ''Archiv für katholisches Kirchenrecht'' 149 : 3–44; reprinted in idem, ''Glossatoren des Dekrets Gratians'' Keip, 1997 , pp. 73
*–114
*.〕。
1150年10月、エウゲニウス3世 (1145年 - 1153年) によってサンティ・コズマ・エ・ダミアーノ聖堂助祭枢機卿に任命され、その後ローマのサンマルコ大聖堂司祭枢機卿となった。1153年、教皇庁尚書院長の職に就き、枢機卿の先頭に立ってフリードリヒ1世 (1152年 - 1190年) に対抗した。ベネヴェント条約締結時には交渉役を務め、ローマとシチリア王国間に和平を取り戻した。
1159年9月7日、ハドリアヌス4世 (1154年 - 1159年) の後継者として教皇に指名された。一部の少数派枢機卿が司祭枢機卿オッタビオを推し、オッタビオは対立教皇ウィクトル4世 (1159年 - 1164年) として立つことになった。ウィクトル4世とその後継者たちである対立教皇パスカリス3世 (1164年 - 1168年)、カリストゥス3世 (1168年 - 1178年) はいずれも神聖ローマ帝国の支持を受けたが、1176年のレニャーノの戦いで帝国が敗れると、フリードリヒ1世は1177年に結ばれたヴェネツィア条約でようやくアレクサンデル3世を教皇と認めた。対立教皇が立てられていた間、アレクサンデル3世は2度にわたってローマを追われた。一度目の1162年には捕われたあげくにオドネ・フランジパーネによって1165年11月23日までカンパニアへと流された。二度目は1167年で、このときはフランスやガエータベネヴェントアナーニヴェネツィアを渡って回った。ヴェネツィア条約締結後の1178年3月12日、アレクサンデル3世はローマへの帰還を果たした。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アレクサンデル3世 (ローマ教皇)」の詳細全文を読む




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